お礼
むーらのライブに聴きに来てくれたみなさん、又これなかったけど応援してくれてたみなさん、お礼が遅くなりましたが本当にありがとうございました☆
遠ーくから来ていただいたり、会いたかった人に会えたり、音楽を聴いて欲しい人たちに集まってもらえて、あー私って幸せだなー。とすごく感じました。
と、思うのと同時にあの日は歌っていなかったら出会えなかった人たち(お姉ちゃん以外)ばかりだったのに後で気付いて怖くなりました。
音楽やってて良かった。と本当に心から思いました。
むーらでの真さんとのDUO、そして真さんのワークショップで今回もまた多くの事を得ました。
これからもっともっといい音楽を目指します!!
遠ーくから来ていただいたり、会いたかった人に会えたり、音楽を聴いて欲しい人たちに集まってもらえて、あー私って幸せだなー。とすごく感じました。
と、思うのと同時にあの日は歌っていなかったら出会えなかった人たち(お姉ちゃん以外)ばかりだったのに後で気付いて怖くなりました。
音楽やってて良かった。と本当に心から思いました。
むーらでの真さんとのDUO、そして真さんのワークショップで今回もまた多くの事を得ました。
これからもっともっといい音楽を目指します!!
中村真×木原鮎子 DUO
2月5日の金曜日は待ちに待った真さんとのDUOがあります。
去年のツアー、12月の2Days、そして今回3回目のDUOです。
真さんの音を聴いたり、一緒に音楽したり、話しをしてたら、自分のしたい音楽、近づきたい音楽のイメージが明確になってきました。
が、故に理想とかけ離れている自分の今の音楽にがっかりする事も多くなりました。
でも、だからこそ練習が更に楽しくなりました。
あの真さんの音の空間にすぅーっと溶け込めるようになりたいです。
2月5日(金)19:00〜
京都出町柳:むーら
Piano:中村真
小さい喫茶店ですのでご予約をお勧めします。
(予約は私かお店までお願いします)
去年のツアー、12月の2Days、そして今回3回目のDUOです。
真さんの音を聴いたり、一緒に音楽したり、話しをしてたら、自分のしたい音楽、近づきたい音楽のイメージが明確になってきました。
が、故に理想とかけ離れている自分の今の音楽にがっかりする事も多くなりました。
でも、だからこそ練習が更に楽しくなりました。
あの真さんの音の空間にすぅーっと溶け込めるようになりたいです。
2月5日(金)19:00〜
京都出町柳:むーら
Piano:中村真
小さい喫茶店ですのでご予約をお勧めします。
(予約は私かお店までお願いします)
友達の結婚式
下書きのまま忘れていた文章を発見!
ちょっと前の話ですが。。。
大好きな友達の結婚式に行ってきましたー。
色々な場面で2人からの感謝の気持ちをすごく感じた1日でした。
花嫁さんはもとからお化粧しなくても綺麗な顔立ちをしている子なので、ばっちりメイクですっごい綺麗になってました!!びっくり!!旦那さんもご満悦☆
おっちょこちょいでもあるので、式中に何かしちゃわないか、牧師さんに「えっ?なんて?」とか聞き直しちゃうんじゃないか母親の様に心配していましたが、そんなこともなく順調に進んでいきました。
が、、、誓いのキスの時に花嫁さんが恥ずかしさのあまり笑い出しちゃうハプニングが!!
静寂だったチャペルが笑いに包まれました。
さすが!やってくれます!!聖歌隊の人も笑いをこらえながら歌っていました。
あー可笑しかったです。
その後は気を取り直して、ちゃんと誓いのキスもして、署名もして無事2人は夫婦になりました。
披露宴もすごく楽しかったです。
ブーケプルズ?だったかな?
リボンをせーので引っ張ったらどれか1本だけブーケがついている。というものですが、15人くらいの未婚女性と1本なぜかあまっていたので花嫁さんの甥っ子がそれを持ち、合図で引っ張りました。
そしたらなんと甥っ子にブーケが!!
すごい確率。私達はいつ結婚できるんでしょうか???
私のミニライブコーナーも設けてくれたのでピアノの大野さんと少し演奏させてもらいました。
普段のライブをする時と歌に込める気持ちが違ったので難しかったです。
そして演奏後、私の席に小さなりんごの形をしたケースが届けられました。歌ってくれてありがとう、とのメッセージが。
ケースをあけると。。。
なんと私がベトナム行った時に欲しがっていた指輪が!!
すっごい可愛い指輪だったのですが、私がアクセサリーにかける値段の範囲を超えていたので、迷いに迷ったあげく我慢したものでした。なのにこっそり買っててくれたんです!そういう気が回らない子なのに。感激ーーー!!
ずっと大切にしたいです。
新居は横浜なのですぐに会えなくなってしまって悲しいけど新しい土地で旦那さんと元気にがんばってほしいです。
人の幸せって本当に嬉しいです。
物事はどんどん変わっていくのねー。と改めて思った日でもありました。
お幸せに!!

もう2週間たつのに、頂いたお花綺麗に咲いてます。
お家寒すぎ???
ちょっと前の話ですが。。。
大好きな友達の結婚式に行ってきましたー。
色々な場面で2人からの感謝の気持ちをすごく感じた1日でした。
花嫁さんはもとからお化粧しなくても綺麗な顔立ちをしている子なので、ばっちりメイクですっごい綺麗になってました!!びっくり!!旦那さんもご満悦☆
おっちょこちょいでもあるので、式中に何かしちゃわないか、牧師さんに「えっ?なんて?」とか聞き直しちゃうんじゃないか母親の様に心配していましたが、そんなこともなく順調に進んでいきました。
が、、、誓いのキスの時に花嫁さんが恥ずかしさのあまり笑い出しちゃうハプニングが!!
静寂だったチャペルが笑いに包まれました。
さすが!やってくれます!!聖歌隊の人も笑いをこらえながら歌っていました。
あー可笑しかったです。
その後は気を取り直して、ちゃんと誓いのキスもして、署名もして無事2人は夫婦になりました。
披露宴もすごく楽しかったです。
ブーケプルズ?だったかな?
リボンをせーので引っ張ったらどれか1本だけブーケがついている。というものですが、15人くらいの未婚女性と1本なぜかあまっていたので花嫁さんの甥っ子がそれを持ち、合図で引っ張りました。
そしたらなんと甥っ子にブーケが!!
すごい確率。私達はいつ結婚できるんでしょうか???
私のミニライブコーナーも設けてくれたのでピアノの大野さんと少し演奏させてもらいました。
普段のライブをする時と歌に込める気持ちが違ったので難しかったです。
そして演奏後、私の席に小さなりんごの形をしたケースが届けられました。歌ってくれてありがとう、とのメッセージが。
ケースをあけると。。。
なんと私がベトナム行った時に欲しがっていた指輪が!!
すっごい可愛い指輪だったのですが、私がアクセサリーにかける値段の範囲を超えていたので、迷いに迷ったあげく我慢したものでした。なのにこっそり買っててくれたんです!そういう気が回らない子なのに。感激ーーー!!
ずっと大切にしたいです。
新居は横浜なのですぐに会えなくなってしまって悲しいけど新しい土地で旦那さんと元気にがんばってほしいです。
人の幸せって本当に嬉しいです。
物事はどんどん変わっていくのねー。と改めて思った日でもありました。
お幸せに!!

もう2週間たつのに、頂いたお花綺麗に咲いてます。
お家寒すぎ???
訂正
明日のBORN FREEのライブ(Pianoの大友君とDUO!)は20時からじゃなくて19:30からでした。
みなさんお気をつけくださいませ。
そしてお待ちしています。
みなさんお気をつけくださいませ。
そしてお待ちしています。
おじいちゃんの伝記 〜森繁久弥さんの話〜
この前ブログに書いた(65年前の家族写真の話)おじいちゃんが満州を引き揚げる時の話しの続きです。
要約して書こうと思いましたが、うまくできないのでおじいちゃんの文章をそのまま引用させて頂きます。
長いですがどうぞ。
国民軍による留用(※一定期間留めて任用するという意味の中国語)から解放され、ようやく祖国への引揚げの日が来た。新京市はいつの間にか長春市と改名されていた。その長春から汽車で南下し、奏天を経由してコロ島まで行き、そこから船で博多に上陸することになっている。
そろそろ肌寒さを感じる9月の下旬の季節だった。ところが、乗せられたのは天井のない無蓋貨車だった。貨物扱いである。とみ子(わたしのおばあちゃん)は睦美(お母さん)を抱き、禎一(叔父さん)を引き寄せ、頭からオーバーをかけ、片隅にうずくまっている。
貨物列車が長春を発車した。これでいよいよ日本に帰れると思うと心がはずむ。貨物列車でも何でも良い、早く祖国の土地を踏みたい。
ゴトゴトとしばらく列車は走ったが、停車した。用便の事を配慮しての停車かと思った。かなり長い停車の後再び動き出すが、しばらく動いたあとまた停まる。そんな事を数回繰り返した後今度は当分動けないということで停まったままの状態が続く。幹事の人たちが運転手のところへ行ったり来たりして、なにやら交渉しているようである。するとまた動くが再び停まる。そんなことを繰り返しながらの運行である。話によると停まる度に幹事の人たちが運転手にお金を渡すのだそうである。腹が立つが、ここではこの運転手が絶対権力者なのだ。どうしようもない。
その都度お金を渡し、列車を動かす。このようにしてやっとのことでコロ島にたどり着いた。
体育館のような所に案内された。そこには既に大勢の乗船の順番待ちの人たちで埋まっていた。
僕達のグループが入ったらほぼ満杯の状況になった。ここで順番を待つのである。
数日の待機で乗船できるとのことであったが、伝染病が発生したとかで1週間くらい遅れそうだとのことである。
到着早々、やれやれ、といささか憂鬱である。
1,2日はみんな我慢したが、3日目ぐらいから我慢の限界に達したような空気が漂ってきた。
その時である。一人の若い男が立ち上がった。「みなさん愉快にやりましょうよ!」と呼びかけた。「みなさんの中に芸能関係の人はおりませんか?歌、芝居、落語。何でもいいです。ここへ出てきてください何かやりましょう!!即興の芝居でも、コントでも!」すると1人たちあがり、2人立ち上がり、5〜6人の人が立ち上がった。その若い男の人はその人たちを呼び集め、「みなさんじめじめした嫌な空気をふっ飛ばしましょう!!僕達で何かをやりますから!」といい残して別室に入っていった。
その翌日大部屋の一部に縄がはりめぐされ舞台がないからここで行われることになった。
この声をかけた男性は後で分かったが森繁久弥さんだった。当時はNHKのアナウンサーで新京の放送局勤務だったと聞いた。アナウンサーだから司会がうまい。この縄張りの舞台でちょっとした寸劇や落語、浪節、漫談、歌謡など多彩である。場が湧くにつれて飛び入りも次々に現れ、にわか仕立ての演芸会の場と化した。しかも大入り満員の会場である。あちこちで久しぶりの笑い声が起こる。沈滞し切った空気が一転して元気を取り戻したようだった。
演芸の中身は殆ど記憶にないが、ユーモアたっぷりの森繁さんの司会振りは印象に深く残っている。
もう1つ印象に残っているのがある。飛び入りで歌ったロシアの若い女性の美声である。実に美しい声だった。
お陰で暗く憂鬱で、退屈で重苦しい生活に何かホッとした空気が漂ってきた。
演芸というのはこんなにも人々の気持ちを救ってくれるんだ。ということが目の当たりに実証されたように思った。
伝染病も収まったのだろうか、思ったより早く乗船順番が回ってきた。船は大きな乗船だった。貨物車できた我々には豪華船に乗せられたような気分だった。幸い日本海は穏やかだった。
祖国の姿が段々近づくにつれて、胸の中が熱くなるのを感じた。かくして10月23日(昭和21年)博多への押さえ切れない上陸が叶えられた。
とみ子は睦美と禎一を抱きしめここは日本だよ。と涙声で教えている。
睦美は2歳だから何のことか分からなかったと思うが、もう怖い事は何もないよ。としきりに自分に言い聞かせていたのが印象的だった。このような光景は波止場のあちこちに見られた。
おそらくこれほど強烈な感動はさきにもなかったし、あとにもないだろう。
港の出口にはたすきをかけた婦人会の人たちであろうか、大勢の婦人が出迎えてくださった。
みんなにご苦労様でした。とひとりひとりに声をかけながら大きな真っ白なオニギリをひとつづつ手渡して下さった。みんなは準備してあったテーブルに腰かけ、暖かい日本茶と梅干の入ったオニギリを涙を流しながら頂いた。
祖国のありがたさがしみじみとこみ上げてきた。
僕達はここで同船の人たちに別れを告げ、故郷に向かった。
おじいちゃんがこの文章を書き終わった1週間後に森繁さんが亡くなりました。
演芸は人を救うと私もずっと信じていたいです。
要約して書こうと思いましたが、うまくできないのでおじいちゃんの文章をそのまま引用させて頂きます。
長いですがどうぞ。
国民軍による留用(※一定期間留めて任用するという意味の中国語)から解放され、ようやく祖国への引揚げの日が来た。新京市はいつの間にか長春市と改名されていた。その長春から汽車で南下し、奏天を経由してコロ島まで行き、そこから船で博多に上陸することになっている。
そろそろ肌寒さを感じる9月の下旬の季節だった。ところが、乗せられたのは天井のない無蓋貨車だった。貨物扱いである。とみ子(わたしのおばあちゃん)は睦美(お母さん)を抱き、禎一(叔父さん)を引き寄せ、頭からオーバーをかけ、片隅にうずくまっている。
貨物列車が長春を発車した。これでいよいよ日本に帰れると思うと心がはずむ。貨物列車でも何でも良い、早く祖国の土地を踏みたい。
ゴトゴトとしばらく列車は走ったが、停車した。用便の事を配慮しての停車かと思った。かなり長い停車の後再び動き出すが、しばらく動いたあとまた停まる。そんな事を数回繰り返した後今度は当分動けないということで停まったままの状態が続く。幹事の人たちが運転手のところへ行ったり来たりして、なにやら交渉しているようである。するとまた動くが再び停まる。そんなことを繰り返しながらの運行である。話によると停まる度に幹事の人たちが運転手にお金を渡すのだそうである。腹が立つが、ここではこの運転手が絶対権力者なのだ。どうしようもない。
その都度お金を渡し、列車を動かす。このようにしてやっとのことでコロ島にたどり着いた。
体育館のような所に案内された。そこには既に大勢の乗船の順番待ちの人たちで埋まっていた。
僕達のグループが入ったらほぼ満杯の状況になった。ここで順番を待つのである。
数日の待機で乗船できるとのことであったが、伝染病が発生したとかで1週間くらい遅れそうだとのことである。
到着早々、やれやれ、といささか憂鬱である。
1,2日はみんな我慢したが、3日目ぐらいから我慢の限界に達したような空気が漂ってきた。
その時である。一人の若い男が立ち上がった。「みなさん愉快にやりましょうよ!」と呼びかけた。「みなさんの中に芸能関係の人はおりませんか?歌、芝居、落語。何でもいいです。ここへ出てきてください何かやりましょう!!即興の芝居でも、コントでも!」すると1人たちあがり、2人立ち上がり、5〜6人の人が立ち上がった。その若い男の人はその人たちを呼び集め、「みなさんじめじめした嫌な空気をふっ飛ばしましょう!!僕達で何かをやりますから!」といい残して別室に入っていった。
その翌日大部屋の一部に縄がはりめぐされ舞台がないからここで行われることになった。
この声をかけた男性は後で分かったが森繁久弥さんだった。当時はNHKのアナウンサーで新京の放送局勤務だったと聞いた。アナウンサーだから司会がうまい。この縄張りの舞台でちょっとした寸劇や落語、浪節、漫談、歌謡など多彩である。場が湧くにつれて飛び入りも次々に現れ、にわか仕立ての演芸会の場と化した。しかも大入り満員の会場である。あちこちで久しぶりの笑い声が起こる。沈滞し切った空気が一転して元気を取り戻したようだった。
演芸の中身は殆ど記憶にないが、ユーモアたっぷりの森繁さんの司会振りは印象に深く残っている。
もう1つ印象に残っているのがある。飛び入りで歌ったロシアの若い女性の美声である。実に美しい声だった。
お陰で暗く憂鬱で、退屈で重苦しい生活に何かホッとした空気が漂ってきた。
演芸というのはこんなにも人々の気持ちを救ってくれるんだ。ということが目の当たりに実証されたように思った。
伝染病も収まったのだろうか、思ったより早く乗船順番が回ってきた。船は大きな乗船だった。貨物車できた我々には豪華船に乗せられたような気分だった。幸い日本海は穏やかだった。
祖国の姿が段々近づくにつれて、胸の中が熱くなるのを感じた。かくして10月23日(昭和21年)博多への押さえ切れない上陸が叶えられた。
とみ子は睦美と禎一を抱きしめここは日本だよ。と涙声で教えている。
睦美は2歳だから何のことか分からなかったと思うが、もう怖い事は何もないよ。としきりに自分に言い聞かせていたのが印象的だった。このような光景は波止場のあちこちに見られた。
おそらくこれほど強烈な感動はさきにもなかったし、あとにもないだろう。
港の出口にはたすきをかけた婦人会の人たちであろうか、大勢の婦人が出迎えてくださった。
みんなにご苦労様でした。とひとりひとりに声をかけながら大きな真っ白なオニギリをひとつづつ手渡して下さった。みんなは準備してあったテーブルに腰かけ、暖かい日本茶と梅干の入ったオニギリを涙を流しながら頂いた。
祖国のありがたさがしみじみとこみ上げてきた。
僕達はここで同船の人たちに別れを告げ、故郷に向かった。
おじいちゃんがこの文章を書き終わった1週間後に森繁さんが亡くなりました。
演芸は人を救うと私もずっと信じていたいです。
